2012年9月19日

大阪梅田教会(サクラファミリア)についての記事一覧

大阪梅田教会についての記事が多くなったので一覧を置いておく。
これは便利のためであると同時に一つの強調表示である。
私はこの大阪梅田教会という「一つの事」を最大表示する。
何故なら、私にとって911という「一つの事」が「世界の構造」に気づく決定的なキッカケとなったように、あなたにとって大阪梅田教会という「一つの事」が「フリーメイソン」に気づく決定的なキッカケになり得るからだ。

2012年9月18日

大阪梅田教会はフリーメイソンのモニュメントである  16

16.フリーメイソンはノアも好きである
「おまけ」である。あまり読むに値しない。
フリーメイソンが「ノアが好き」な様を、絵でざっと見て頂く。
以下は、フリーメイソンのサプライショップが販売しているものである。
(画像はリンクされている)
「いにしえの棟梁ノアのレインボー記章」といったところか。
三角の中の N はもちろんノアの N である。
「Royal Ark Mariner、大棟梁ノアのエプロン」か。
「Royal Ark Mariner、讃うべき棟梁ノアのエプロン」か。
このように、彼らはノアを高く持ち上げているのである。
(もちろん、彼ら独自の文脈のもとに。)
しかし、私はもう少し神経を使わなければならないかも知れない。というのは、上に挙げた記章とエプロンは、フリーメイソンの中の Royal Ark Mariners というグループ(ある種の位階のようだが)のものだからである。だから読者の中には「そのグループはフリーメイソンの中でも特殊なものなのではないか。これだけでは “フリーメイソン一般” がノアを特別視しているとは言えないのではないか」と思う人も居るかも知れない。
しかし、違うのである。“フリーメイソン一般” がノアを特別視しているのである。確かに、自分達のメダルや旗に「ノア印」を付けるという、そこまでの事をしているのは、幾つかのグループに限られるようだけれども。
フリーメイソン一般がノアを特別視していることを、語学の堪能でない私が彼らの原文を引きつつ説明するのは、あまり簡単ではない。それに、私はあまり彼らの思想に深くアクセスしたくない。シグナルを拾うことぐらいしかしたくない。(彼らについての本を読むことはあるが、それはいつも「拾い読み」程度である。)
しかし、例えば、検索していると、「Noah's Ark Lodge」という言葉にしばしば出会う。
また、フリーメーソン・スコティッシュ・ライトの第21階級は「Noachite, or Prussian Knight」と呼ばれているが、Noachite は「ノアの末裔」と訳されている。
また、こんな表題の彼らの文章もある。
・Masonic References to Noah as the Master Builder参照
つまり「熟練建築家としてのノア」である。
私が知るところ、彼らの考え方はおおよそ次のようなものである。
1.
「ノアの方舟」 は半端な船ではない。偉大な建造物である。形状
2.
それ故、それは石ではなく木で出来ているけれども(ノアは「石工」ではないかも知れないけれども)、ノアが偉大な建築家であることには変りはない。
3.
彼がどうしてそれほど偉大であり得たかと云えば、彼がカバラ等のの奥義に通じていたからだ
つまり、「ノアはフリーメイソンだった」と、彼らは言うのである。
自分達の「偉大な先輩」の一人だったと。
もちろん、彼らが「ノアはフリーメイソンだ」と言う時、1717年だかに結成されたという所謂「近代フリーメイソン」とは別のものを言っている。また、「近代フリーメイソン(思弁的フリーメイソン)」の前の「実践的フリーメイソン」、つまり石工職人とも違う。彼らの主張によれば「古代フリーメイソン」というのがあるのだそうである。何千年も前からカバラなどの秘儀を研究し、実践し、今に伝えた人々が。
そういうことなのである。(不十分だったかも知れないが。)
つまり、彼らも、聖書中の事柄、人物などを、ある種の仕方で「嫌いではない」ことがあるのである。ただし、それはあくまで彼ら独自の文脈においてであるので、私達は決して喜ぶことはできないし気を許すこともできない。
おまけ、終り。
ひとこと
最近の中国との衝突にしても、
これなのでは?
私達の戦争理解
イノセントな人達は (1)「戦争とは国と国と間のもの」と考える。
解析家達は (2)「戦争とは国を超えた或る者らが仕組むもの」と考える。
勿論、後者の方が遙かに正しい。
しかし、そこに留まっていたのでは、まだ十分ではない。
(3)「戦争は人間の罪に対する懲罰である」
しかし、地上の解析家達には「人類には懲罰される如何なるものもない」ぐらいにしか思えないので、結果、例えば「ノアの方舟」に関しても、それから、黙示録が警告する「終末」に関しても、「流用されたもの」と「本来的なもの」とを混同するのである。
地上の解析家達は、いまだ傲慢だし、いまだ真の疑問を*得ていないし、それから、いまだ単純である(失礼な言い方だけれど)。
*「解答を」ではなく。
   疑問を得ていないのだから解答を得られる筈がない。
彼らの目には、世の「信仰家」と呼ばれる人々こそ単純に見えるのだが、本当のところ、そうでもない。
しかし、これについて書くとあまりに長くなりそうなので、やめておく。
彼らの「頑なな目」にも神の恵みのあらんことを。
そして、私達信仰家にとっては、これである。
「体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れることはない。
むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできるお方を恐れなさい。」
マタイ 10:28

大阪梅田教会はフリーメイソンのモニュメントである  15

15.どのような
「記念碑」
なのか (2)
モニュメント
聖書預言を下敷きに(それを「流用」し)、その悪魔的傲慢をもって、自分達の手で「終末」を推し進めようとしている一団が居るであろう。
...と重々しく始めなくても、最早こんなものは常識である。
私は、以下の二人が大阪梅田教会に関わっていた、などということを言いたいのではない。しかし、大阪梅田教会建設の背後にいたであろう者らがこのような者らと同じ「種族」(民族的種族ではなく心的・霊的種族)の者であることは確かだろう。彼らの心性を見るために、彼らの代表者の口振りを改めて見てみよう。
頭目デイヴィッド・ロックフェラー
ロックフェラーは1994年、国連の夕食会で次のように言っている。「我々は世界規模の変容を目前に控えている。我々が必要とする全ては、まさしく大規模な災厄だ。これによって諸国は New World Order を受け容れるだろう。(We are on the verge of a global transformation. All we need is the right major crisis, and the nations will accept the New World Order.)」
彼らには「大規模災害を使って要求を飲ませる」という発想がある。
「『発想がある』ということと『実行する・しない』『実行できる・できない』ということは別です」と主張する論者もワンサカいる。
しかしとにかく、「彼らにはその発想がある」ということを覚えておこう。
2002年に国連総会に書き送った書簡(冒頭)
終末が近づいています。好むと好まざるとにかかわらず、それは、私たち全員が直面しなければならない運命です。2001年9月11日に、世界は終末の始まりを目撃しました。私たちが目撃し、経験したものは、もうすぐ起こることになっている大災害に比べればまさしく無に等しい。
(The time of the end is upon us. Like it or hate it, it's the destiny we must all face. On September 11, 2001 the world was witness to the beginning of the end. What we saw and experienced will be nothing compared to the calamity that is to soon transpire.)
非常に多くの命が失われたことは悲しむべき事実でありますが、しかし、もっと多くの命が奪われることになるでしょう。この旧いシステムが崩壊しはじめたのですから、こういった出来事は今後起こり続けます
(It is sad that so many lives have been lost and yet so many more will be taken - but these things will continue to happen as this old system begins to collapse.)
「預言者」であり「執行者」であるデイヴィッド、というわけである。
もう一つ言えば、この人類世界の建設を指揮する、今やその「再編」を指揮する、メーソニックな意味での「大棟梁」というわけである。
あなたは彼の言葉に僅かの善意も感じてはならない。「悲しむべき事実でありますが」などという言い回しに僅かでも彼の善意を感じるならば、何と言おう------あなたは「イノセンスお化け」である。この書簡には、誰もが「異様さ」を感じなければならないのだ。
宇野正美氏の聞いた話を思い出せ。この世には、上品ななりをしながら、何万何千という人が死ぬことになるだろう大災害をあらかじめ知りつつ「まあまあまあまあまあ」と涼しい顔して言って済ますことのできる、そのような人間(人間?)が、実際、居るのである。しかも、そのような者らは互いに結び合っている。(この程度が「陰謀論」なのか?)
ビル・ゲイツ
ロックフェラーのお仲間であるビル・ゲイツも、謂う所の「科学的知見」に立ち、人口爆発/食糧危機など、地球の将来を「心配」している。
ロックフェラー同様、彼も「終末」を意識している。
そして、彼が推し進める「終末処理」の一つの計画の名は「ノアの方舟計画(Project Noah)」である。検索: しかし、彼の「善意」を信じるな)
確かに、デイヴィッド・ロックフェラーやビル・ゲイツといったその方面の大物と大阪梅田教会という「チッポケな教会施設」との距離は遠い。接触はないだろう。
しかし、間違いのないことは、彼ら*にとって「ノアの方舟」は「終末」のためのアイコンだということである。
* その方面の「下層」の者らではなく「上層」の者ら。
「上層」の者らは「下層」の者らに自分達の真意を教えない。
「下層」の者が上層に上がって来るまで。
ちなみに、フリーメイソン/イルミナティを少しも識別しない “霊覚” を持った白光真宏会は2008年、ビル・ゲイツに「平和賞」を贈った。参照
チェッコ・ボナノッテ
さて、以上の二人は大阪梅田教会の建設に直接関わっていたとは限らない。というか、関わっていないだろう。しかし、次は、その建設に大いに関わった人物である。チェッコ・ボナノッテ。彼は先日(2012年9月12日)「世界文化賞」を受賞した。まあ、これが人の世である。アル・ゴアやオバマがノーベル平和賞を受賞したようなもんである。下は記者会見場での彼。
美術家や建築家は自分の創意だけで作品を作るとは限らないけれども、つまり注文主の希望なり指示なりが創作に与える影響が勿論あり得るけれども、しかし彼の場合、知っているのはないか? 自分の作品が持つ隠された真の意味を。
「サクラファミリア(カトリック大阪梅田教会)」のデザインには、イタリアの著名な彫刻家、チェッコ・ボナノッテ氏の意見を反映。
彼にはかなり広い自由性が与えられていたのではないか?
ちなみに「世界文化賞」とは正確に言えば「高松宮殿下記念世界文化賞」である。日本の賞なのだ。日本人は自分達に最も愚弄的な作品を贈ったであろう芸術家を表彰したのである。
***
「カトリック教徒」=「気づかない人々」、と定義したいくらいだ。
大阪梅田教会(サクラファミリア)
未信者に告ぐ。大阪梅田教会はフリーメイソンのモニュメントである。確実にそうである。しかし、この事は、上のこのような人達がフリーメイソンの神(ルシファー)を崇拝しているということを意味しない。あなたには信じられないかも知れないが、少なくとも彼らの圧倒的多数は(「全て」とは言わない)、ただ「気づいていない」のである。
しかし、もうそろそろ気づかねばならない。
特に大阪梅田教会/サクラファミリアの関係者達は、否、その前に大阪大司教区の指導者達は、物事を直視しなければならない。
言い逃れも「善意の解釈」も出来るものではない。
大阪梅田教会(サクラファミリア)
大阪梅田教会(サクラファミリア)
読者の中には、前回から今回の前半にかけて、私が想像力の羽根を伸ばし過ぎだと考えておられる人がいるかも知れない。しかし、百歩譲って仮に事実そうだとしても、上の情景は確かである。この比較は確かである。
今回の件、以上。
しかし、おまけ。 次へ

大阪梅田教会はフリーメイソンのモニュメントである  14

14.どのような
「記念碑」
なのか (1)
モニュメント
私は普段は自分の記事をそんなに買っていない。
だから滅多にこういう言い方はするものではない。
しかし、今回だけはこう言う。
日本人よ、この記事を読め
そして、知っておけ
最初にアップした文章は少々ヒステリックだった。
ヒステリックにもなろうというものだ、と自己弁護する。
しかし、とにかく書き直した。(2012年9月21日)
次に、「ノアの方舟」という象徴について、「ノアの方舟」が象徴として使われる場合の意味合いについて、少し考えてみたい。
質問はこうである。
それは必ず『救いの象徴』なのか?
多くのクリスチャンにとっては、そうなのかも知れない。
また、「フリーメイソンの隠された真の姿」ということを本気にしない、それゆえ主観的には確かに善意ではあるかも知れないフリーメイソンの下層の者達にとってさえ、そうなのかも知れない。
しかし、キリスト教会のことを考えてみよう。
一般に、キリスト教会において、ノアの方舟の絵を掲げている例はどれほどあるだろう?
あるにはあるだろう。
しかし、キリスト者にとって「救い」のまっすぐの素直な)象徴は、あまりにも当然ながら、主の十字架であり、カトリックにおいては特に主の磔刑像である(本来)。
他方、ノアの方舟は、旧約の世界のものであり、救いの象徴になり得るかも知れないが、私はこう思う------「滅ぼし」の象徴にもなり得るだろう
何故ならば、救われた人間の数が僅か8名だからである。
(あなたはその時代に生きた時、自分がその8名の中に入る自信があるか?)
この事を考えれば、ノアの方舟は、むしろ「滅ぼしの象徴」としてのシグナルの方が強いと言うべきだろう。
私はそう感じる。
ノアの方舟は、人類にとって、本当はかなり怖い象徴なのである。
それは「大洪水」と共にある。
だから(とつなげていいのかどうか分からないが兎に角)ノアの方舟の絵を掲げるキリスト教会は、無くはないだろうが、あまり多くはない筈だ。
しかし、サクラファミリア、大阪梅田教会は、その全体をもってノアの方舟を構成するのである。
ここ日本において。
そう、ここ日本において。
既に気づいている人もいるかと思う。
私はそれを書くことを少し躊躇する。
非難や冷笑を恐れるからではない。
ショックを受ける人が居るかも知れないからである。
しかし、これは「確証」のあることではない。
「確証のあることではない」と思って聞いてもらえばよい。
・・・
大阪梅田教会が献堂されたのは、2011年3月6日(日)である。
もちろん、このような教会の大事な*行事は
主日(日曜)に行なわれなければならなかったろう。
6日に都合がつかなければ、次の日曜の13日にという具合に。
* 本当は「大事」などではなかった。大阪梅田教会は献堂などされない方がよかったのだ。
それはさて措き、とにかく...
その日は東日本大震災のあった日とひどく近い。
5日前である。
私は「象徴」というものを見過ぎたのだろうか、
次のような「象徴的ストーリー」が見える気がするのである。
大阪梅田教会という「ノアの方舟」が完成し、
その「竣工式」が執り行なわれたのが2011年3月6日である。
その5日後の2011年3月11日に「大洪水」が起こった。
このタイミングは何なのか。
偶然にしては出来過ぎのように思われる。
しかも、それと近接したもう一つの情報がある。
それは2011年の「1月末〜2月の初め」にあったという
或る「会合」に関する伝聞である。
参照: 真実性の問題と道徳性の問題は別である
私にはこの宇野氏の話がとても重要なものに思われる。
ちなみに、この宇野正美という人に関して、私はこう思う。
 1.彼も人の子、常に正しい事ばかり言うとは限らない。
 2.しかし、彼は少なくとも詰まらぬ嘘をつく人ではない。
もちろん私は、大阪梅田教会の竣工が3月11日の直前に来るように “準備” されたのだとして、どこの誰がそれを計画し、事を運んだのか、知らない。けれども、私としては、帰宅した際、部屋が荒らされ、物もなくなっているのを見た時のような気分だ。私はその時、泥棒が入ったことを確信する。「誰がいつどのようにこの部屋に侵入したか分かるまでは、私はここに泥棒が入ったとは認めない」とは言わない。ちょうどその時のような気分だ。
何故なら・・・もう一度示そう。
(遺族には見せられるものでないことは、私も分かっている。)
2011年1月末〜2月初め
フリーメイソン/イルミナティの会合
東北地方がない地図 「東北地方が消えるんです」
2011年3月6日
フリーメイソン/イルミナティ印の(製の)ノアの方舟が竣工
2011年3月11日
大洪水東北地方
私には「ここには偶然しかない」と思うことは難しい。
サクラファミリアはそのための彼らのモニュメント(記念碑)であった可能性がある。
私は今まで大阪梅田教会(サクラファミリア)は「反キリスト」という意味での「フリーメイソンのモニュメント」であるとしか考えていなかった。
しかし、それはおそらく、上の如く、「日本人」に対するものでもあるだろう。
そう気づいた目で見直せば、これも以前とは違ったふうに見えてくる。
「惨めに小さく頼りなげなヤシの実の舟のようなものに乗っており(乗せられており)」、且つ上から剣のようなもので脅され、おびえて身を寄せ合っているように見えるこの家族は、実は「日本人の家族」「日本民族」なのではないか。
(もちろん、彼らが「聖家族」も「日本人」も嫌いであれば、その両方なのかも知れないが。)
そして、思えば、日本国自体が、海に浮かぶ「小舟」である。
「惨めに小さく頼りなげな」(彼らから見て)。
つまり、これは彼らの日本人に対する愚弄的表現なのではないか。
そして且つ「予告的」な表現なのではないか。
「大阪のチッポケな教会施設にそんな細工をしてどうなるんだw」
まだそんなふうに笑っている人がいるかも知れない。
確かに、サクラファミリアは「チッポケな教会施設」だ。しかし、彼らは「マーキング」が好きな種族(民族的種族ではなく心的・霊的種族)である。彼らは時にはおおっぴらに、そして時には “草葉の陰” に、自分達の「記念碑」を置くだろう。
「悪趣味な絵」などと言うな。現実はこの通りなのだ。
この宇宙には厳然と「悪魔」が居り、この地上にはその霊流を受けつつ動いているその配下、「悪魔の代理人」達が居るのだ。残念ながら。
なに? 「そんなものが居る可能性はない」?
それとも、「可能性」ぐらいはありますか?

大阪梅田教会はフリーメイソンのモニュメントである  13

13.フリーメイソンもノアの方舟が嫌いではない (2)
さて、そして、ここで注意を引かせてもらいたい。
この絵をもう一度見て頂きたい。
私はこの絵を見て、何だか大阪梅田教会(サクラファミリア)のことが一層分かったような気がするのである。(あなたも既に気づいているかも知れない)
つまり、こうである。
もしこの絵の上部に「サクラファミリア(大阪梅田教会)」と印字して、大阪梅田教会のカードとして配布しても、そんなに不自然ではないであろう!
サクラファミリア(大阪梅田教会)
1.建物全体が「ノアの方舟」である。
2.その「ノアの方舟」に「目と三角」が乗っている。
3.その「目と三角」は「中心的な場所(祭壇/玉座)」にある。
別に上の絵でなくても構わない。こちらの絵を採用したとしても、事態はほとんど変わらない。
サクラファミリア(大阪梅田教会)
サクラファミリアの関係者の人達も、憤慨したり傷心したりする前に、少し省察して頂きたい。
これらの絵とサクラファミリアは、その構成において、その構図において、ほとんど全く同じなのである。
誰もこれを否定できない。
これは単なる偶然か?
もちろん私は、サクラファミリアをデザインした人が上のこれらの旗を作ったフリーメイソンの特定のグループ、すなわち Royal Ark Mariners というグループ(ある種の位階らしいが)のメンバーであったとか、そのグループと何らかの直接的な関係を持っていたとか、そこまでのことを言うつもりはない。
しかし、サクラファミリアとそのグループの旗がここまで似ているのだから、両方の作者が同じ心性の内に住む者と思わざるを得ない。
では、その「心性」とは何か?
事ここに至って、難しく考えるのはやめよう。
「フリーメイソン」である。
そして、私達にはもう一つ気づかねばならない事がある。
それは、上のこれらの絵は彼らの「トレーシング・ボード」であるだろうということである。
前回書いた通り、彼らはこれらの絵を紹介するページにおいて「Tracing Board」という言葉を6回出している。だから、彼らが上の二枚の絵に「トレーシング・ボード」という言葉を直接付していなかったとしても、少なくともこれらがトレーシング・ボードに「準ずる」ものであるということは、私にはまったく確かなことのように思われる。
つまり、どういうことになるかと云うと...
どうやら彼らは、大阪という都市に、自分達の “秘儀” を表わす「トレーシング・ボード」になぞらえた建物を、それを下敷き(基本設計図)にした建物を、それを反映させた建物を、都合、少なくとも二つ造ったようなのである。
それは、もちろん、この「ご両人」のことである。
梅田スカイビルと大阪梅田教会
梅田スカイビル(或るビル
大阪梅田教会
というわけで、サクラファミリアにおける「ノアの方舟」はキリスト教的なものではなく、フリーメイソンのシンボルでありシグナルである公算が極めて高いことがお分かり頂けたのではないかと思う。

大阪梅田教会はフリーメイソンのモニュメントである  12

12.フリーメイソンもノアの方舟が嫌いではない (1)
クリスチャンなら、基本的に、ノアの方舟が嫌いではない。
しかし、フリーメイソンも、彼ら独自の仕方で、それが嫌いではない。
そのことを、感覚的に、絵で確認してもらう。
以下に、フリーメイソンのメダル、ロゴ、旗などを並べる。
なお、私はこれらの画像に関して詳しくは調べていない。というのは、今回の目的のためには、フリーメイソンの同じ一つのグッズの中に「フリーメイソン特有のシンボル」達と「ノアの方舟」の図柄が共に描かれていること、つまり「共存」していることを確認すれば、それで十分だからである。
詳しく調べたい人のためは、画像に元のページへのリンクが貼ってあるから、それを辿って調べて頂きたい。
Noah's Ark Lodge
Mark Master Masons
G. C. A.
(The Guild Companions of the Ark)
Armenia Lodge No. 1
Royal Ark Mariners
Antient & Honourable Fraternity
Royal Ark Mariner
Antient and Honourable Fraternity of Royal Ark Mariners
Provincial Grand Lodge of Sussex
Surrey Enthroned Commanders
その他、ノアの方舟を配した Royal Ark Mariners の旗の数々 → 参照
すぐ上の画像にリンクされたサイトを見れば、彼らが実際にこの通りの旗を作ったことが分かる。そして、どうも、これらの旗は彼らにとって「旗」であるばかりでなく、かの「トレーシング・ボード」でもあるようなのである。(そのページはそれらの図像、旗などを紹介しながら、「Tracing Board」という言葉を6回出している。)
ともかく、これで、フリーメイソンがどれほど「ノアの方舟」と「無縁でない」か、それを「嫌いでない」かが、お分かり頂けたと思う。これをあなたの一つの結論として下さい。これらの画像によって、その事をとくと分かって下さい。(若干押し付けがましい言い方だけれど、しかし、真実なので。)
そして、前々回の記事で確認したことを思い出して下さい。或る建物が「善いもの」(一見善く見えるもの)を持っていたとしても、その横に「全く悪いもの」があるなら、全体は「全く悪い」------という場合があることを。
サクラファミリアの「ノアの方舟」に安心しないで下さい

大阪梅田教会はフリーメイソンのモニュメントである  11

11.ノアの方舟
Noah's Ark
大阪梅田教会について、また気づいた事がある。
おそらく、重大な事だ。(と思う)
以前、この写真を見た時、私は首をひねった。
「屋上のこの黒い枠のようなものは何?」と。
一般に、ビルの屋上には、空調、電気、給水など、各種の設備があるものだろうが、サクラファミリアの場合、それらの幾つかを黒い枠のようなものが取り囲んでいるようなのである。私は、どうしてこのようなことになっているのか、その意味(必要性)が分からなくて首をひねった。
もちろん、私は建築に関しても設備に関しても素人であるし、実際にこの屋上にのぼって見たわけでもないのではあるが。
しかし、ともかく、私は屋上に見えるその箱様のものから、これを連想したのである。
そして、何とはなしの「不吉さ」を感じた。
何故ならば、他者(ひと)はどうか知らないが、私にとって「救い」を感じさせるものは「十字架」や「磔刑像」であって、「方舟」ではなく、もしこの時代に(他の時代ではなく)誰かが考古学的な意図からではなく宗教的な意図から「方舟」を表示するならば、私はそこに「救い」よりも「終末思想」のようなものを感じずにおれないからだ。ある宗教施設がその全体をもって「方舟」を象る時、私の目にはその施設が「終末」に備えて------もっと言えばそれを「待ち受けて」------いるように見える。
まあ、それはあくまで私の主観ということでよい。
しかし、私はつい先日気づいたのだが、大阪大司教区の公式サイトも次のように書いているのである。
私は、「あれま」と思った。
そして、改めてサクラファミリアを見直してみた。
建築パース
なるほど、正面の三角の断面は傾斜しているのである。上の角が前にせり出していて、全体がまさしく「船首」のような形をしている。
そして、大阪大司教区の公式サイトの文章を書いた人は「方舟」に「救い」を連想するのかも知れないから、こんなことを言うと申し訳ない気もするが、「船首」ということで私が次に連想したのはこれであった。
そして思った、
「なんでこんなに “リンク” するんだろう?」と。
(大阪梅田教会と梅田スカイビルは。)
確かに「船首」であろう。
ということは、「船首」における「目と三角」、であろう。
両方とも
比較のセットに追加しておこう。
小結論
サクラファミリアと梅田スカイビルのルミ・デッキは、
彼らの象徴を先頭に掲げて進む二艘の船である。
当然、この二艘の「船」の目的地は似たようなものだろう。

大阪梅田教会はフリーメイソンのモニュメントである  10

10.必要な目
大阪梅田教会について再開する。
それなりに重要な事に気づいたと思うので。
表題が偉そうで申し訳ない。
しかし、次の頁に進む前に、あなたの目に働きかけておきたい。
あなたに二つのものを紹介したい。
一つはこれである。
ご存知「契約の箱」のレプリカである。
クリスチャンであるあなたにお伺いしたい。これをこれ自体として見た時、あなたはこれに好感を持ちますか、持ちませんか。
クリスチャンはユダヤ教徒ではない。クリスチャンにとって契約の箱は救われのために必須のものではない。けれども、これは確かに、かつては*天主様の御栄光が宿っていたものではないだろうか。
*「かつては」ではなく、今も地中で同じようであるかも知れないが。
 ロン・ワイアットとアンナ・カタリナ・エンメリック  参照  同内容
私は、クリスチャンの中には、基本的にこれに好意を持つ人が多いのではないかと思う。はっきりとした悪感情まで持つ人は皆無ではないか、居たとしてもごく僅かではないかと。(嫌わなければならない理由があるだろうか?)
まあ、人の考え方はそれぞれだけれど、一応、
「クリスチャンの多くが、基本的には、契約の箱に好意的であろう」
これを私の一つの仮説とする。
あなたに紹介したいもう一つは、これである。
これは一つの「玉座(throne)」である。
背もたれには所謂「黄金の子牛(Golden Calf)」を思わせるものがある。
手すりは有翼のライオンのようであり、階段には猫のようである。
背もたれの牛の頭は実は金色ではなく白のようだけれども、それでも全体として明らかに異教的なものである。というか、ここははっきりと「悪魔的」と言っておくべきだろう。
従って、
「クリスチャンであれば、誰も、この玉座を『善い』と言わないであろう」
これを「仮説」と言うことはできない。そうですよね。
しかし、以上紹介した二つは、実は同じ建物の中にあるのである。
この中に。
これは George Washington Masonic National Memorial という。ジョージ・ワシントンを顕彰するためにフリーメイソンが建てたものである。首都ワシントンD.C. からさほど遠くない、バージニア州アレクサンドリアに在る。単に記念碑的な建物というだけでなく、ロッジとしても使われているようだAlexandria-Washington Lodge No. 22
紹介した二つは、いずれも最上階にあるようである。
契約の箱のレプリカは Royal Arch Room に。
玉座のレプリカは Tall Cedars of Lebanon Room に。
ちなみに、「Tall Cedars of Lebanon(高いレバノン杉)」というのは、フリーメイソンにとっての一つの重要な象徴であると同時に、マスターメイソン(親方)だけが入会できる会の名前でもあるようだWikipedia-en。その部屋はその会によって管理されているようである。
玉座の方は彼らによって「ソロモン王の玉座(King Solomon's Throne)」と呼ばれているようだ。ソロモンが実際にこのような玉座を持っていたかどうかは別にして、彼が異教に「かぶれた」ことは旧約聖書に書かれている。
列王の書 上 (バルバロ訳)
第11章 サロモン王は、おおくの異国人の女、モアブ人、アムモン人、エドム人、シドン人、ヘト人の女を愛した。つまり、主がかつて、イスラエルの子らにむかって、「あなたたちは、かの女(じょ)たちのところへはいってはいけないし、かの女たちも、あなたたちのところへきてはいけない。そうでなければ、〔かの女たちは〕あなたたちの心をまどわして、自分たちの神々に仕えさせるであろう」とおおせられたのに、サロモンは、この民々に属する女たちを強く愛したのであった。かれには、妻の位置にある七百人の妃たちと、三百人のそば女(め)とがいた。サロモンの女たちは、かれの心をまどわした。
 さて、サロモンが年をとったとき、かの女たちは、かれの心をいざなって、異国の神々に仕えさせたので、かれの心は、もはや父ダヴィドの心のように、ただ神である主にのみ忠実なものではなかった。こうしてサロモンは、シドン人のアスタルテ女神(めがみ)と、アムモン人の恥ミルコムに仕え、主のみまえにいまわしいことをし、父ダヴィドのようには、主に忠実を守らなかった。そのころサロモンは、イエルザレムに面した山の頂(いただき)に、モアブの恥ケモシュと、アムモンの子らの恥モロクのために、それぞれの高台(たかだい)をつくった。異国生まれのすべての妻たちのためにも、おなじようなことをした。かの女たちは、それぞれの偶像に、香といけにえとを捧げていた。
 けれども、主のおんいきどおりは、サロモンにたいしてもえあがった。
しかし、そのような詳細は、さして重要ではない。
私は要するに、「同じ一つの建物の中に『善いもの』と『悪いもの』とが同居している、混在している」、この構図を皆さんに見せたいのである。
つまり、
或る一つの建物の中に「善いもの」(善く見えるもの)があるからといって、それだけで安心することはできない。
「善いもの」の方に視線を取られたあなたは、つい全体までも「善い」と思ってしまうかも知れない。しかし、そうであってはならない。そうであってはならない「場合」がある。
「善いもの」があっても、その横に「全く悪いもの」があるなら、全体は「全く悪い」。そのような「場合」がある。
...ということを、偉そうに言えば、覚えておいてもらいたいのである。
偉そう序でにもう一つ言わせてもらえば、このようなことを覚えたあなたの「目」は、一つ “鍛えられた” ことになる。と思う。
このことは、次からの話に関係する。願わくは、忘れないで頂きたい。
(大した事にも思われない事を、私がこのように大ゲサに言うのは、この世には、気づきにくい「偽装」があるからです。)
以下は「欄外」のものと思って頂きたい。
私にとっても主要なものではない。
怒られるかも知れないけれど、私にはどうしても上の玉座で思い出さずにはおれないものがある。目黒教会
もう一つ、「混在」の小さな例を挙げておく。
W・カーク・マクナルティによれば、これは19世紀初めにイギリスの捕虜になったフリーメイソン結社員であるフランス兵が作ったブローチということである。
まあ、「個人的」な作品かも知れない。しかし、ともかく、ここにはフリーメイソン結社員が作った工芸品の中における「キリスト教的」にも見えるモチーフと「完全にフリーメイソンのもの」であるモチーフの「混在」が見られる。
ここまで連想すると、行き過ぎか参照。しかし、もし天主の敵が天主の教会を乱そうとするならば、必ずや、その聖堂を、特にその祭壇の場所を乱そうとするだろう。そこは信者の信仰の目が向けられる場所である。彼らはそこに一つの偽装を置くだろう。「キリスト教的」に見せかけてはいるが、実のところ彼らに属するもの、その象徴なり構成なりを置くだろう。何も知らぬ信者達がその場所に敬虔なる視線を注ぐのを見て、彼らは愉快がるだろう。私達はその確実な例を知っている。大阪梅田教会である。そして私は、これは「確実」とまでは言えないが、目黒教会と聖トマス大学のチャペルに関しても疑うのである。